当山は臨済宗方広寺派の寺です。
今から四百十年前、元繩三年十二月末、
三方原合戦の際、武田方の武将、新原弥左右衛門尉村一は、
当地に以前よりあった岩水寺系の澗泉寺を本陣として、
此の地に止まり浜松城へ対陣したが、戦い不利と悟り、徳川家康と和睦し、家康公より此の地を賜わり、自らの姓をとって新原村とした。
村作りの終った文禄二年(一五九四)、
麁玉郡奉行新原弥左右衛門尉村一は、甲州より開山巌岫長老を招じて、
澗泉寺北西(現地)に十一面観世音菩薩を本尊として寺を建立す。
澗泉寺を廃して、臨済宗無文派に改宗し、澗泉山瑞応寺と云う。
寛文三年(一六六三)、気賀近藤縫殿公より、
境内地百聞四面構え分のお墨付と、山林田畑十二町歩を拝領し、
江戸末期まで除地となり、石高は大変多かった。
江戸中期には七堂の大改築があり、世間の人たちは、
「ずっても、ずりきれん瑞応寺」といったそうです。
建物が大きくて、あまりにも立派すぎたから例えて云ったものと思われます。
六代長沙和尚は、
"駿河には、すぎたるもの二つあり、富士のお山に、原の白隠″
といわれた白隠禅師の十哲の一人で、当山の禅堂へ雲水が、
雲霞の如く参集して参禅された、と荊棘叢談と云う本に記してあります。
八代以降、住職は寺子屋を作って、
地元子弟の教育に当たり、種々なエピソードが残っています。
明治の初め、小学校令が制定され、
明治七年には、当山が新原小学校となり、
明治四三年まで数多くの子女が寺の本堂にて、学習に励んだ話が、
今でも古老の間に聞くことができます。
このような関係上、麁玉、新原両校の学校沿革誌の中に、
四代続いて教鞭をとった瑞応寺住職の氏名が書き示されています。
江戸時代の新原には、
"新原原原、茶の木原、三反三畝で、芋汁一食″
といわれた貧村であった。
昨今は都市化と共に開発も進み、昔を偲ぶすべもなくなりました。
当山の片隅には村作りと、寺を建立した新原元主新原弥左右衛門尉村一公が、
拓け行く郷土を見守りながら静かに眠っています。
数百年来、風雪に耐えて、ずってもずりきれん瑞応寺は、
威容をそこなわずに平成21年6月 天峰建設近代建築の粋を極めた技術による再建されました。
瑞応寺十六世 森田浄圓